10月6日(金)

午前 「森ノ宮の歴史を学ぶ」

  大阪府高齢者大学校 陸奥 賢 講師

 

 午前中は高齢者大学校教育会館の会議室を借りて、午後に歩く森ノ宮界隈の成り立ちや歴史を古地図などで詳しく説明してもらった。

  森ノ宮界隈は、縄文・弥生時代の貝塚が発見され、さらに古代には難波宮、中世には大阪本願寺が、近世には大阪城が築城され、戦時中には軍隊が置かれて兵器工廠などがあった。近年は大阪城を中心に観光地として、また、キリスト教系の学校などがあり文教地区としても発展している。まさに森ノ宮界隈は大阪6000年の歴史や文化が凝縮されたエリアである。

午後 まち歩き「大阪6000年!悠久の大地を知る」

   大阪府高齢者大学校 陸奥 賢 講師

 

越中井

細川家の大坂屋敷跡で、徳川家康と対立した石田三成は、家康方の細川忠興の妻ガラシャを人質に取ろうとしたが、ガラシャは拒否し屋敷に火を放って自害して、唯一井戸が遺構として残っている。

大阪玉造カトリック教会(大阪カテドラル聖マリア大聖堂)

 昭和20年の大阪空襲で滅失して現在の大聖堂は昭和38に落成された。敷地が細川家の屋敷跡という由縁で、聖堂内正面には「聖母マリア」、左右に「高山右近」、「細川ガラシャ」を配した大壁画が掲げられている。また、東西の窓にはキリストの生涯の主要場面を写したステンドグラスがある。

高山右近像

 高山右近は摂津出身のキリシタン大名で、12歳の時に洗礼を受けた。その後、信長、秀吉に仕えて武功をたてて明石6万石に封ぜられる。小西行長、黒田孝高といったキリシタン大名の大半は、右近が信仰に導いたと言われる。秀吉のバテレン追放令の際には、領地や全財産を放棄して秀吉の元を去ってでも信仰を守り抜き、諸外国にもその名は広がった。その後、幕府から禁教発令が出てフィリピンに追放されて、現地で翌年殉教した。

ガラシャ夫人像

細川ガラシャは、明智光秀の三女で本名は珠(たま)という。信長のすすめで細川忠興に嫁ぎ、仲の良い夫婦であったが、父・光秀が本能寺で信長を討ち、珠は逆臣の娘として丹後に幽閉された。その後、秀吉の恩赦で細川家の大坂屋敷に呼び戻しされたが、ここで宣教師の教えを聞いて魅了され、密かに洗礼して「ガラシャ」(ラテン語で神の恵みの意味)の名を受けた。ところが突如として秀吉はバテレン追放を発令したが、ガラシャは発覚を免れた。関ケ原の戦いが勃発すると西軍・石田三成は東軍・細川忠興の妻ガラシャを人質に取ろうとするがガラシャは拒否して「ちりぬべき 時知りてこそ 世の中の花も花なれ 人も人なれ」の辞世句を残し、槍で胸を貫かせて享年38歳で亡くなった。

玉造稲荷神社

古代は「玉作岡」と呼ばれ勾玉などを作る玉造部がいたと言われる。曽我・物部の争いの際に聖徳太子は当地に布陣して、戦勝後は観音堂を建立した。豊臣時代には千利休が茶会を催したという伝承もある。豊臣秀頼奉納の鳥居や千利休顕彰碑のほか、勾玉や土器などの古代資料が展示されている。

秋田實笑魂碑

 秋田實は玉造出身の人気漫才作家で、ミヤコ蝶々・南都雄二、夢路いとし・喜味こいし、秋田Aスケ・Bスケ、ミスワカサ・島ひろしなどの漫才師を育てた。晩年もオール阪神・巨人、B&Bなどを育て漫才ブームの礎を作った。8000本近い漫才台本を書いて「上方漫才の父」とも呼ばれている。幼い頃に遊んだという玉造稲荷境内に笑魂碑があり、隣石には辞世句が刻まれている。

鵲(かささぎ)森宮(森ノ宮神社)

 主祭神は用明天皇(父)、穴穂部間人皇后(母)、聖徳太子(子)で、森ノ宮神社とも呼ばれている、曽我氏と物部氏が争った際に曽我側の聖徳太子が四天王に祈願して勝利したので、当地に四天王を祀る寺を建立した。のちに寺は移って四天王寺になるが、この「元四王寺」が神社の縁起と伝えられている。また、鉄鋼業の祖・吉士磐金が新羅より鵲(かささぎ)2羽を献上して難波の杜で飼育したとあり、これが鵲森宮の社名の由来と言われている。鵲はカチガラスとも呼ばれる吉鳥(幸運の鳥)で、韓国では国鳥になっている。

森ノ宮遺跡

 この辺りから土器片が見つかったことから学術調査が行われ、大阪市内では数少ない貝塚が見つかった。貝塚の下層部分(縄文期)は海水産のマガキ、上層部(弥生期)は淡水産のセタシジミで、この辺りが元は海であったのが、淀川や大和川の土砂によって埋め立てられ、湖へと変貌していったことが見て取れる。また縄文期(約6000年前)の地層から屈葬人骨18体と生活用具が発見され、大阪最古の人骨で「大阪市民第1号」として有名になった。

  

(「大阪あそ歩」まち歩きの資料から抜粋)