6月16日(金)

八尾にゆかりの人物伝「戦国武将 三好長慶の生涯」

講師:八尾市観光ボランティアガイドの会  桝井 幸助 氏

「三好長慶」は、1522年(大永2年)に阿波国(現在の徳島県)の三好郡で生まれ、1564年(永禄7年)までを生きた戦国武将です。「織田信長」より先に天下人に近づいた人物と言われている。

当時畿内最大の勢力を誇っていた管領(かんれい:将軍の補佐役)「細川晴元」と室町幕府第13代将軍「足利義輝」を京都から追放するという鮮烈な下剋上を演じ、勢力圏は、最盛期には山城・大和・摂津・河内・和泉の五畿内、そして阿波・淡路・讃岐・丹波・丹後・播磨東部にまで及んだ。

 しかし、快進撃が続いた三好政権も、親族の死没をきっかけに陰りが見えはじめ、三好長慶も43歳という若さで急逝。そのあとに台頭した織田信長によって、勢力図は大きく塗り換えられた。

1549年(天文18年)「江口の戦い」細川晴元が池田信正を殺害したことに端を発した細川晴元・三好政長軍と、三好長慶軍の戦い。

三好長慶軍が大勝し細川晴元は、将軍・足利義晴、及びその子「足利義輝」と共に京から近江坂本へ逃亡した。

1560年(永禄3年)居城を移す:芥川山城(現 高槻市)から、飯盛山城(現 四条畷市)に拠点を移し、三好長慶は近畿と四国を支配下に収め、天下人として活躍。また、飯盛山城を堅固な山城にする為、石垣などを多用した。一方、文化人としても評判が高く、連歌や茶の湯にも優れ、飯盛城で開催された連歌会は「飯盛千句」として記録が残る。

1562年(永禄5年)「教興寺の戦い」:河内高安郡教興寺村(現 大阪府八尾市教興寺)付近であった三好長慶と畠山高政との合戦。戦国時代における畿内での最大規模の会戦として有名である。
長慶はこの戦いに勝利したことで、畿内の旧勢力の抵抗を排除し、河内、和泉を勢力下においた。さらに大和、紀伊へも勢力を浸透させることに成功した。しかし、この戦いの中で一族の有力者であった三好政成、三好義賢などを失ったことから三好政権の前途に暗雲が見え隠れするようになった。

1564年(永禄7年)三好長慶、飯盛山城にて死去。(43歳):葬儀は真観寺(現 八尾市北亀井)で営まれた。境内には、長慶と甥の義継の、二基の宝篋印塔がある。銘には、法名と没年月日が刻まれている。

*江戸時代初期に長慶は信長、秀吉、家康に先駆けた日本の統治者としてヨーロッパに紹介された。

(参考資料:八尾市観光ボランティアガイドの会資料)


「音楽レクリエーションを楽しもう」

講師:レクリエーションコーディネ―ター  梶本 智子 氏

 

現代は脳や体の研究が進み、コミュニケーションを基盤にしたレクリエーションで頭を使ったり体を動かしたりして心地よく笑って過ごすと、脳を活性化して心身に良い影響をもたらすことが分かっています。今回の講義は昔の歌で懐かしさを感じたり、時節に因んだクイズで頭を使ったり、曲に合わせて体を動かしたりして体感しました。

われら人生六十から」』

われら人生六十から 心も体も元気にて 七十で迎えに来たならば ただ今お留守と言いなさい

われら人生六十から いつもニコニコほがらかに 八十で迎えに来たならば まだまだ早いと言いなさい

われら人生六十から 何も不足はありません 九十で迎えに来たならば そんなにせくなと言いなさい

われら人生六十から いつも感謝で暮らします 百で迎えに来たならば ころ見て行くよと言いなさい