9月22日(金)

午前 「八尾の戦跡について」

 

八尾市観光ボランティアガイドの会  大西 進 講師

 

 八尾に残る陸軍大正飛行場(戦後阪神飛行場と改称し、現在の八尾空港)を中心とした戦跡の説明を受けました。講師の大西さんは、父親が戦死したニューギニアを遺骨収集団の一員として訪問され、それを契機に、ふるさと八尾の戦争遺跡を記録に残したいとの想いで調査を始められ、その成果を発表されています。

 また、「日常と地域の戦争遺跡」(批評社)などの著作物も執筆されています。

 非常に細かく丁寧な説明で、知らなかった戦争遺跡の理解が深まりました。

 

陸軍大正飛行場

 阪神工業地帯を守るために民間の阪神飛行学校を接収して、陸軍大正飛行場が設置された。周辺の耕作地など広大な土地を強制的に買収し、甲子園球場70個分に相当する総面積287haに拡張された。戦闘機、輸送機、爆撃機が発着可能なコンクリート舗装がされた二本の滑走路が交差して造られ、東洋一といわれる軍用飛行場になった。また、軍用機の修理や資器材を調達管理するための大阪陸軍航空廠(こうくうしょう)が配置され、周辺には民間の軍需工場が出来た。

11飛行師団司令部跡

 本部庁舎、作戦室、兵舎、作業所など多くの施設があり、四周を水壕で囲まれていた。空襲に備えて、陸軍の防空飛行戦隊を統括指揮するための中枢基地で、あらゆる情報を収集分析し、各地に配置された戦隊への迎撃命令もここから発せられた。司令部作戦室の建物は、機銃掃射や集中爆撃にも耐えられるように非常に堅固に造られていた。

現在、司令部跡は高層住宅群に、作戦室建物跡は志紀町西公園になっている

飛行第246戦隊戦闘指揮所

 昭和193月、阪神地区へ来襲する敵機を迎撃するために飛行第246戦隊が配属された。この戦隊が昭和203月から使用していた戦闘指揮所は飛行場滑走路の直近にあり、被弾痕や爆弾痕が生々しく残されていて、当時の戦闘の凄まじさが感じられる戦争遺跡である。

掩体壕(えんたいごう)跡

 掩体壕とは、軍用飛行機を上空からの爆撃から守るための堅固な屋根をもつ格納庫のことで、大正飛行場内に19基、場外の高安山麓に20数基が建設された。現在、垣内地区に鉄筋コンクリート製ドーム型の掩体壕が残っている。

水壕跡

 大正飛行場の四周には、軍用地と民間地を分かつ人工の水壕が掘られ、防御と排水の機能があった。現在、多くは地下水路と化し道路や広場、治水緑地などに転用されている。

高射砲陣地跡

   大正飛行場の内外には、敵機の襲来に備えて多くの高射砲や高射機関砲の陣地が構築され、周辺には夜間の空襲に備えて聴音機や照空灯が配備されていた。大正飛行場の水壕沿いに高射砲が6門、高射機関砲が水壕沿いと大和川の堤防沿いに14門が配備されていた。

午後 まち歩き「戦跡巡りと陸上自衛隊見学」

 

 午後から、午前中説明のあった戦跡を大西講師と八尾市観光ボランティアガイドの会の方々の案内で巡り、最後に陸上自衛隊八尾駐屯地を見学しました。

 

田井中会館

軍需工場(呉羽ゴム)のあった街並み

11飛行師団司令部のあった志紀町西公園の記念碑(裏面には大西講師の説明文がある)

陸上自衛隊八尾駐屯地

 


陸上自衛隊八尾駐屯地見学

 

 八尾駐屯地は、八尾空港内にあって主にヘリコプターによる2府19県(北陸、東海、近畿、中国及び四国)の防衛警備と災害派遣等を任務とする陸上自衛隊の「中部方面航空隊」と「第3飛行隊(第3師団所属)」及び「八尾駐屯地業務隊」が所在している。

 

 駐屯地内には戦闘指揮所跡の建物が当時の状態に近い状態で残っており、被弾痕や爆弾痕が生々しく、戦闘の凄まじさがうかがえた。展示室には戦時中の装備品や制服などの遺品、遺書まで残されており戦争の悲惨さを感じました。現自衛隊のコーナーでは、日夜、国民のために活動されていることに感謝するとともに頼もしく感じました。改めて戦争と平和を考える良い見学になったと思います。